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  • 執筆者の写真石塚

「未来政府―プラットフォーム民主主義(ギャビン・ニューサム)」

毎週水曜日に神保町で哲学・政治・経済、生き方などについて語る会をやっております。参加希望の方はメッセージ下さい。


昨日はある市議(教育行政に詳しい)の方が参加してくださいました。そこで紹介してくださった書籍が面白かったので、まずはご紹介。


ギャビン・ニューサム著 未来政府―プラットフォーム民主主義


●今の政府は、40年前のOSで動いているコンピュータのようなものだ。遅くて、処理できる問題の範囲もせまい。こんなに世界がつながっているのに、誰も政府とつながろうとは思わない。


●政府はプラットフォームとなれ!政府、行政は、みずからすべてを解決しようとしてはいけない。持てる情報を公開して、課題の発見と解決は、市民の力(アプリ)に委ねればいい

会の最初の話題は教育でした。ジョン・デューイやイタリアのレッジョ・エミリア教育法、やまびこ学校の無着成恭先生らが事例に出ながら、考えられる人間を育てるにはどうすればよいのか。一つの答えとして、現在の教育制度を変える他に地域に様々な人が参加できる場を作ることが必要だということでした。


個人的にはスラヴォイ・ジジェクが想起され、「選択しているようで、実は選択をしていない」ということが、かなり増えてきているなーと感じていることを発言しました。


スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由 メモ


民主主義、資本主義は意識的に選択しているはず。いちど、ゼロベースで考えてみれば、違う構造でも世界を捉えることができる。しかし、そうった考える教育というのは、なかなか実現できていない。


その流れで、会の話題は「公共性」に。

議論のベースになったのは広井良典氏の「ポスト資本主義」。この本は、「部を除く都市が成長・拡大し続けるのはもう無理かもしれない。人口減少とグローバル化の流れによる経済成長と個人主義的な生活には限界がくるのではないか。」という問いを投げています。


昨日は、一つの答えとして、みんなで「公共性」というものを考えてみて、公共の場でも自己や生の獲得ができるような仕組みが必要になってくるのではないかということでした。

少し前に流行ったマイケルサンデルの著書を引用してみます。

公共の領域に入るにあたって、道徳的・宗教的信条を忘れることを民主的国民に求めるのは、寛容と相互の尊重を確保するための一法に見えるかもしれない。だが、現実にはその逆が真実となりうる。達成不能な中立性を装いつつ重要な公的問題を決めるのは、反動と反感をわざわざつくりだすようなものだ。本質的道徳問題に関与しない政治をすれば、市民生活は貧弱になってしまう。(中略)リベラル派が恐れて立ち入らないところに、原理主義者はずかずかと入り込んでくるからだ。


現在の政治にゆだねている公共という概念や場というものは、実はあまり市民と関係していない。市民は税金だけを納めて、内容については無視をしているのかもしれない。


会ではアーレント、ハーバマス、バルト、河合隼雄などが既出のものとして語られましたが、比較的新しい意見としては、佐藤優氏の「官僚階級論」と、現代フランス哲学に関する意見がでました。佐藤優氏の意見をすげー簡単にすると、民主主義は官僚階級がみずからの専制を粉飾する装置として働いてしまうということ。現代フランス哲学に関しては、日仏会館に呼ばれて講演しているような思想家たちは、かなり日本の精神性について研究を深めて、西洋思想と統合をしている。欧米のポストコロニアルの価値観探しに対して、日本が持っている精神構造を応用されているということ。


東京大学山脇先生の公共哲学に関する講演の書き起こし メモ http://mitizane.ll.chiba-u.jp/…/…/keynote-yamawakinaoshi.pdf


そんな感じであっという間に数時間経過しました。あとは、アクティブラーニングって言葉は聞くけど、座学はしているけど、実際にディスカッションする場ってあまりないよねという意見も。。。下記は有用なアクティブラーニングとしてのコンテンツです。


カーンアカデミー https://ja.khanacademy.org/





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ポエム1

内に潜んでいた希望の能力が外に出てきたので、オレは変わる。 失望や絶望から逃げなくとも、それをキャッチした上で生きていける。 人が好きになる。 何かを始める時の、最初のポジショニングが、どこか分かった。 ただこれらは予感の世界なので、罰や倫理や死を身体で受け止めていく。 すごく簡単に言うと、オレは泣き止んだ。

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