本質というワードが出るたびに、話者はどういった時間軸で話をしているのかが気になってしまう。本質が持つイメージには、ある程度変わらないものと、流行のように変わっていくものが混在していると直観するからだ。
物事には、そのものが持っているエネルギー、或いは、そのものから感じるエネルギーが動き出す指向性がある。阿頼耶識から表出するある程度の本質的なものであっても、それは時代や文化の影響を受けているのではないかと思う。それは後述するエピステーメーという感覚質だと思っている。
しかし、この阿頼耶識からでてくる意識の表出地点における感覚質を得ると、圧倒的な魅力に腑抜けにされてしまう。そのためその体験を最高のものに置いて、世間や流行を捨てしまう人もでてくる。また医療・介護の領域で取材をしているとケアという仕事の中に、これに似た感覚質が表出してくると思っている。
言語で物を表現しながら、本質的なものに触れ合う。そういった仕事しているのは詩人だろう。詩人の作業とは、阿頼耶識のような深層意識と交流しながら、外側からくるものとのタッチポイントを探していると言えないだろうか。
この両軸が交差するのは、経験と運が関係してくる。またそういったクリエイティブな時間帯をどうやって活動の中に作っていくのかがポイントになる。
ニーチェの解毒剤とも言われているリルケの『マルテの手記』はこのような指摘がある。
「僕は詩も幾つか書いた。しかし年少にして詩を書くほど、およそ無意味なことはない。詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。」
そこにあるのは観察者の視点だ。科学とアート、アポロとディオニソス、秩序と渾沌、マーヒーヤ(mahiyah)とフウィーヤ(huwiyah)、扱いやすくするような本質と、もっと深層にある魅力的で美的な本質、リルケは後者のように寄っていった詩人だ。欲とは生きることそのもので、欲を捨てれば死ぬことになる。死にたいというわけでもないので、自然にしているということになる。そしてそこにある虚無と付き合っていくのに、詩にするという行為は祈りにも似たツールなのかもしれない。
本質はこのような両軸のところをどうやって行き来するのかというのが根本的にあると思うが、そもそも混じり合わないという割り切りもあるのかもしれない。プラトンの「イデア」と、アリストテレスの「ウーシア」だ。「ウーシア」は今物理的な物体、「素粒子」を含むような化学的な実体を含んだ本質という概念だ。ルネサンス期に書かれた「アテナイの学堂」。この真ん中にはプラトンとアリストテレスがいる。プラトンは天を指さし、アリストテレスは地に手の平をかざしている。これは、プラトンのイデアに対して、アリストテレスの現実的に使える考え方が重要だという主張を象徴している。
形而上学と物質世界をどうやって結び付けるのか、それは人間自体を知っていくことと、世界や社会を知り、どう結んでいくのかということにつながる。まずは自己開発をして人間を詳しくみていくとして、その後の時間をどう過ごすのかということに繋がってくる。