昨日、能を鑑賞、取材しました。これは伝えなければいけない世界が増えたなと感じます。演目は「平敦盛」です。
敦盛は平家で一番若く当時は16歳、戦はあまり好まず、笛を愛していたが、源平の戦いで戦地に赴き源氏の熊谷直実に討たれてしまう。
時は流れ、数々の戦に疲れた熊谷直実は、出家して法名蓮生となる。蓮生は、かつての戦いで討った平敦盛のことが忘れられず、敦盛を弔うために摂津国須磨の浦へと向かった。
そうすると、蓮生の前に敦盛の化身を名乗る男、終には敦盛が霊として現れる。敦盛の霊は、平家一門の栄枯盛衰を語り、栄華を懐かしんで舞う。
そして、蓮生を討とうとするが、すでに出家して、敦盛を弔おうとする蓮生を敵ではないと悟る。敦盛は、極楽浄土では共に同じ蓮に生まれようと言い残し姿を消す。
昔の武士たちは、戦争状態にありながらも能を鑑賞して幽玄の世界を感じて、戦のむなしさを知りながらも戦っていたそうです。
能はいま海外で評価が高まっているそうで、戦争が止まない地域ではその空しさが伝わりとてもココロに刺さるそうです。
幽玄の世界を知れば、想像力が増して、欲を少し抑えられる。しかし、それを知っても大きいな集合意識に飲み込まれていく。自分の超自我的なところから指令がやってくる。
人が殺し合う戦場は何に近い感覚なのでしょうか。もしかすると、仏教の無に近い感覚なのでしょうか。
現代戦争のジャーナリズム映像やアメリカンスナイパーなどの映画を見ると、戦場の現場では、緊張感の中に変な和み空間があって、絆が生まれたり、突然死んだり、掴み切れないふんわりした鋭い感じで混乱していきます。そこには何も意味はなく、ただエネルギーだけが存在するぐるぐるしたように感じます。
能の凄さの一つに、音があります。リズムは均等な拍子でとるのではなく、呼吸がベースです。囃子方の奏でるリズムに呼吸までもっていかれると、かなり幽玄の世界が近づいてきます。
能を深くしっていくと、いまの社会システムの形骸化された部分への違和も立ち上がってきます。ベースは呼吸なのかもしれません。