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  • 執筆者の写真石塚

「ポスト資本主義(広井良典)」

広井良典さんの「ポスト資本主義」を読んだ。岩波の講座の第一巻の論考をより深めた感じになっている。まず市場経済と資本主義システムの違いについて整理できた。


市場経済は読んで字のごとく、マーケットでの純粋な交換を表す。公の場に存在しているためいたって透明。個人事業主や市民が楽しみながら交換する場。マルクス資本論でいうところの「W(商品)-G(貨幣)-W(商品)」。純粋な市場経済をベースとしている単純な商品流通は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として機能している。


資本主義システムは覇権国家によって保障され、その中に体現されてる。また、交換の場に力と策略が存在し、価格を強制する場合がある。そして弱者からしたら、いたって不透明。強者(資本家など)は「G(貨幣)-W(商品)-G’(貨幣)」の取引をし、最初に投入するGよりも大きいG’を得るために商品を利用している。金融システムが開発されると、よりスピードが増す。金融資本の場合は商品を介する事がないので、「G(貨幣)-G’(貨幣)」となる。価値の増殖は、流通の外にでることなく、「G(貨幣)-W(商品)-G’(貨幣)」の運動のなかだけに存在し、絶えず繰り返されている。この資本運動には限度がない。この運動に対しては、意識ある担い手として資本家がいるということになる。


市場経済までは自然発生的な感じがするが、資本主義システムが浸透したのに理由がある。常識的に考えて、富の総量(欲望が消費できる富は時間と共に価値を失うものがほとんどだ)は一定の有限の範囲にとどまる。これが実体経済と言える。実態経済を前提とした場合、個人の取り分が拡大すれば他人の取り分が減ることになる。このことから、歴史的にみても、個人に寄りすぎた利益追求活動は多くの場合は否定されている。


しかし、富の総量自体が拡大・成長するという前提があると話が違う。総量自体が拡大・成長するという全体にたつのであれば「個人の私利の追及 → 経済のパイの総量の拡大 → 社会全体の利益の増大」といったサイクルが出来上がる。


広井さんは、富の総量自体が拡大・成長するという考えを支えたのは、農村の初期的な工業化(毛織物業の発展など)、産業革命を通じた新たな技術パラダイム、地下資源エネルギーの活用、植民地への進出と指摘している。


また、広井さんは科学の世界でも同じことが起きていたと指摘する。フランシス・ベーコンを引用し、自然を支配、活用して人間の生活を改善するような科学の在り方、能動的な自然操作が行われるようになってきたと言う。


人間は自らを自然と区別して、自然現象は個々の要素の集合体として捉え、要素還元主義的に支配可能なものとして理解している。近代科学が法則を見つければ見つけるほど、産業という意味でのテクノロジーが開発されて、資本主義における経済の拡大・成長につながってきた。「個人の独立」と「自然支配」という指向性がここ数百年間、強く働いていて、資本主義システムを下支えしていたことがみえてくるというわけだ。


科学の基本コンセプトとして、17世紀の近代科学の成立時には「物質と力」、19世紀の産業革命頃には「物質とエネルギー」、20世紀の半ばころには「エネルギーと情報」、そして現在の21世紀は「情報と生命とは何か」とまとめていた。遺伝子研究なんかは情報であり、生命とは何かの基礎的なものだ。またロボットを研究している石黒先生は、ロボットを作っているというよりは生命とな何かを考えている。個という概念は消費する主体者であって、経済発展が踊り場にくると、個から取り出せる情報がなくなり、別に理由を求めることが必要になるのではないかな。


広井さんは、いくつかの経済学者の理論をキュレーションしていた。J.S.ミルの経済学言論から「定常状態論」→簡単に言うと、経済成長しない時代に必要なのは経済的進歩よりも人間的進歩というロジック。ケインズの修正資本主義→人々の需要や雇用という市場経済の根幹部分を政府が管理し創出すること。そして、ジョン・Rマクニール「世界のどこでも経済成長を最優先することが20世紀における最重要の思想であたのは疑いない。しかしながら、その突出ぶりにもかかわらず、経済成長が政府の目標として最重要となったのは比較的最近のことである。アメリカでは第二次世界大戦後になってはじめて、景気循環の抑制や大量失業の回避といった長年の優先事項に代わって、成長が経済政策の主要目標となった」。

この”最近のこと”というのが新鮮だ。経済政策の主な指標はもちろんGDPのことだ。ここで感じてしまうのは国民国家のサイズだ。大きな規模の全体を一つの指標でコントロールするなんてことは、やはり要素還元主義的だし、平均値を取るだけでは、無理をしなければいけない人がかなりでてくることになるだろう。最近はブータンがGNH(Gross National Happiness=国民総幸福)という指標を使い始めたのが話題になったが、幸せをパブリックに議論するということ自体、世界中であまり行われていないのではないだろうか。


欲望や期待から解放されて、実体をしっかりと見極めるためには何が必要か。ヘルマンヘッセのシッダールダを思いだす。自分は食物・睡眠・性といった生理的欲求、家族や会社といった「所属や愛の欲求」などがある程度満たされているからこんなことを考えられるのかもしれないが、消費を繰り返していくと、個には何もないと感じる。私は自然環境やコミュニティと一体化していると思えてくるから不思議だ。だから”私”や”実態のない論理だけ”を求めることには注意しなければならない。個が自然や共同体から独立してどこまでも遠くにいくということは難しい。(というかできないと思っている。)


もう一つの引用として脳科学者のアントニオ・ダマシオ「デカルトの誤り」があった。ダマシオは自己や意識の根底には安定した有機体の内部環境から生まれる「原自己」があり、それを抜きにしては自己意識や思考、感情を語ることはできないとしている。デカルトの我思うゆえに我ありという近代的な自我観を否定している。「自然、共同体、個人」や「貨幣の現実性や期待性」などを”分ける”のではなくて、重層的に捉えるということになる。とてもダイナミックだ。



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