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  • 執筆者の写真石塚

笑いの根源は安心だった。


遊戯の中の存在論。そんなことを思って生きているのだが、ユーモアを研究していた面白い方がいらっしゃることを知った。木村洋二先生(2009年に肺がんのため亡くなった)だ。



木村洋二先生 (1948 ~ 2009)は京都大学文学部卒、関西大学社会学部教授だった。専門はコミュケーション論、理論社会学。「日本笑い学会」理事であった。


木村先生は、あるとき3時間笑いつづけて、「笑いの統一理論を思いついたらしい。その経験も含め、笑いの構造と理論が、『笑いの社会学』(世界思想社・絶版)という書籍にかかれている。


笑いの社会学 木村洋二
笑いの社会学 木村洋二

木村先生の残した言葉を少し引用したい。


人間は、自分がおかれた意味世界を懸命に行きながらも満足や納得のいく結果を得ることは容易ではない。不本意、不条理、おろかさ、みじめさ、悲しみ、怒りで世界は充ち満ちている。そもそも、なんで生まれて何故死ななければならないのか、それがすべてのヒトの大問題である。ユーモアは、そうした難題や矛盾を抱えて生きている人間を意味への貼り付きから引きはがし、自分と世界を他者の視点、別の視点から見ることを可能にする。


ユーモアは、笑いの力を用いて、「死」に先駆ける人類の高等技術である。名誉や権威を笑いで無化するのはみずから「余剰」を死ぬことであり、苦悩や苦境を無化するのは「欠如」を死ぬことである。図式の破れ目から、「無」に脱出する笑いの力が、名声やその欠如のような社会的幻覚のリアリティから人間を自由にするのだ。



引用元

( http://www.digitalact.co.jp/warai/message.html?fbclid=IwAR3qwH-q6YL34ichqh90KFe4-LcBpUHSl1qc0bJnYMPBZ0KMEG6uCtYZjkQ )



木村洋二先生は、以前にタモリさんらが司会をしていた『トリビアの泉』という番組に出演した。


このときに一緒に出演した研究者たちは、木村洋二先生(関西大学)、蔵琢也先生(京都大学)、羽鳥徹哉先生(成蹊大学)、北垣郁雄先生(広島大学)、山内志郎先生(新潟大学)の5名だ。大学の所属は当時のもの。


この5名の研究者が、「ダジャレの法則を使って、面白くない状況、場を不条理にする」という目的のもとの議論して、作り上げ、それを披露するというものだった。


【ダジャレの法則を使って、場を不条理にする方法】

ダジャレの様式は、それが繰り返されることによって法則性が生じ、見るものにも笑いに至る思考回路が形成されることにある。


法則性が生じるには最低三回の繰り返しが必要である。


法則性が確立され、次にくるものが予期される流れの中で、予期を外したダジャレになっていないものが来ると、観客は笑えるかもしれないという予期・予想を裏切られ、大きな不安に陥る。


笑いの基本である予期からのズレ下がりからはまったく別の方向に向かうことになり、日常性とはまったく異次元である不条理の世界に突き落とされてしまい、観客は笑えなくなる。

その結果、とても面白くない不条理な状況が成立する。


予期の裏切りは高度な笑いの形式ではあるが、ダジャレという低次元の笑いで実践することにより、低次と高次が混ざったことによるさらなる混乱も生じさせることができる。


つまり


ダジャレの法則を使って、場を不条理にする方法とは


「この板、痛ーい」 「この屋根、嫌ねー」 「この靴、苦痛ー」


の後に


「このセメント、セメント」


と言うことなのである。ウケるw


似ていて違うものに直面したとき、図式が「ズレて」、精神は混乱する。この混乱を避けるために、回路を「ハズして」しまうのが、笑いの核心的なメカニズム(負荷脱離)である。痴漢かとおもったら電柱だった、とわかった瞬間、闇夜でひとり笑うだろう。これがハーバート・スペンサーのいう「ズレ下がり」で、落差が余剰化して笑いとなる。逆のばあい、つまり「こんなところに電柱が、でも痴漢かも、」という時は、笑っている場合ではない。「ズレ上がり」なので驚いて逃げださなければならない。(木村洋二先生ら)



笑いの根源は安心なんですね。うむうむ。

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ポエム1

内に潜んでいた希望の能力が外に出てきたので、オレは変わる。 失望や絶望から逃げなくとも、それをキャッチした上で生きていける。 人が好きになる。 何かを始める時の、最初のポジショニングが、どこか分かった。 ただこれらは予感の世界なので、罰や倫理や死を身体で受け止めていく。 すごく簡単に言うと、オレは泣き止んだ。

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