議長が「Order! Order! 」と言ってますが、orderの語源であるordとは「秩序」という意味です。
Orderは物理学では量の基準を表しますし、建築では基礎の柱のことですし、野球では打順を示します。論理やルールの基礎って感じです。
「Order」というワードには理性だけでなく、もう少し奥の感覚質を引っ張ってくる機能があると感じます。奥の感覚質とは、カントのいう「悟性」に近い感じですね。悟性は理論的に考える前の経験的なものを認識したり発動させる能力のことです。
「夜になったよー」とか「ご飯ができたよー」みたいなワードも「Order」に近い感じがします。
カントは『啓蒙とは何か』という論考の中で、「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。多くの人間は生涯をとおして未成年状態でいたいと思い、またなぜ他人が彼らの後見人を気取りやすいのか。それは怠惰と臆病こそが原因である。未成年状態でいるのはそれほど気楽なことだ。」と述べています。
未成年状態という言い方には思わず笑いが込み上げますが、このテキストは悟性的認知からから理性的認知にいかないのは怠惰と恐怖が原因になっているとも読み取れます。
倫理とは書き換えられる可能性のあるものですが、多くの場合、恐怖や怠惰(めんどくさいから)によって「この場の雰囲気に従っておこう。多分それが正しいのだ。」となり、それ以外のものには嫌悪を示す感情構造に支配されます。
その感情も含む自分自身の認知構造自体を認知することをメタ認知と言ったりします。倫理など、無自覚に支配されているルールに対してはメタ認知で理性的に判断することで行動を変えられる場合があります。
また、この動画を見たときに、中井正一の『委員会の論理』も思い出しました。中井は集団的な思考はどう形式化されるのかについて考えた人でした。最近のティール組織とも関係する領域です。
中井は古代を「言われる論理」、中世を「書かれる論理」、近代を「印刷される論理」と時代を区分しました。そして「言われる論理」から「討論」が生まれ、「書かれる論理」から「思惟」が生まれ、「印刷される論理」から「技術」と「生産」が生まれるとしました。
現在の日本の政治において、書かれる・印刷される論理はほぼ官僚の領域ですね。議員と議会は言われる論理の領域で留められてしまっています。民意が政治の世界の中で、もっと分かりやすく印刷される論理に反映されるように、多くの人が悟性と理性を使った議論を経験して、自ら書くという行為が為されていったらいいなーと思います。
私的な領域では個人が好きに書ける時代になりました。会社での一般的な会議や役員会などの意味づけも変わり始めています。このような個人が書ける文脈が、政治の場を経由して公として書かれるものにどのように影響されるのか。今年も大きく変化がありそうです。
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