釈迦が生存していたころは、バラモン教が全盛でした。社会は哲学と欲望と政治を絡み合わせることを要求します。そうすると、死への恐怖から輪廻転生を、不合理からカルマという概念を鏡のように生み出します。
ですが、釈迦はそれを否定しました。釈迦自身は、物質的世界における観察の人でもあります。そして、物理学などの発展により物質は素粒子にまで還元されていきます。素粒子は出現したり消えたり、ほとんど空の世界となります。
宇宙が収縮と膨張を繰り返す中で、エネルギー保存の法則があるとすると、それを輪廻と呼んだりすることもできるでしょう。輪廻はエネルギー保存の法則だったりもするわけです。まあ、でもそれはバラモン教的な輪廻ではありません。
生活をベースにする社会の抽象度はというと、権利とか所有や社会的立場といったことに、心身の活動を費やします。本来、心身の保存を目的として社会活動があるはずなのに、社会活動を維持するために心身の活動が使われるという、本末転倒のようなことが起きている気がします。
最近の医療診断機の発達によって、倫理と脳に関する研究が増えてきています。義務感を大きく感じる人は、梁下回 と 島皮質前部が大きいとか、個人の尊厳を大きく感じる人は、背内側前頭前野が大きく、楔前部が小さいとか、腹内側前頭前野に損傷があると義務感が弱くなったりする報告があります。
また、最近読んだ「モラルトライブス」という書籍に、情動で反応する時には前頭前野腹内側部(VMPFC)と扁桃体の活動量に変化があり、論理的思考によって功利主義的にの時に判断するときには、前頭前野背外側部(DLPFC)の活動量に変化あるという研究結果も載っています。
これらは、なぜ人間は自分を抑えて社会活動をするのか、なぜ義務感を無視して個人的な活動を優先するのか、その根源にあるのは何なのかというヒントがあります。
脳血流はあくまでも結果の観察であり、その原因はココロの中にあるのかもしれませんが、脳のモードが違っているのを理解することは、生活を楽しむうえで重要なことになりそうです。
ということで、超越と表現と孤独の旅を続けましょう。
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