昨夜、ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」を読み解く会に参加してきました。
この世界は自分のココロが作り上げているもので、私がこの世から消えたら私の作り出している世界も消える。だけど、私が認識していた色々なモノはどうなってしまうのか。
ショーペンハウアーは、外界のモノを感じて自分が作り上げている世界や概念類を「表象」とし、その「表象」の元にあるナニモノかを「意志」としました。
「意志」とは、僕なりの解釈でいくと、「世界をこう見たい」という情動のようなもので、欲望と倫理が合わさってできあがった指向性のような感じです。
人間がモノを見ることについてですが。仏教には五蘊(ごうん)というものがあります。人間の認識のプロトコルを説明したものです。
・色(知覚領):形、色など、外界にあるものを知覚する領域
・受(視床下部、脳幹):喜怒哀楽を連れてくる情動の領域
・想(頭頂葉):色で知覚し、受で情動反応を伴ったものを理性的に処理する領域
・行(運動領):衝動的な欲求、欲望が起こってくる領域
・識(前頭葉):判断する領域
例えば、ここにタンポポが咲いているとします。
・まず「色」で、タンポポを知覚して、形や色などを認識の中にコピーする。
・その時に「受」があり、植物という同じ生命体であるタンポポを認識できて嬉しいなどの情動を連れてくる。
・「想」があり、この形、色、そしてこの嬉しい感じはタンポポだと理性的に処理する。
・そうしてから、このタンポポと一緒になりたいな。欲しいなと「行」がある。
・「識」と照らして、これは私を嬉しくさせる、〇〇色で、こんな形のタンポポだ。とても欲しいけれども、タンポポはタンポポの命があり、この場で生きている。タンポポを摘み取らなくても一緒に生きているのだ。そのままにしていこうとなる。
また、カントは物自体を認識するためには、それを捉える悟性(ごせい)があるとしました。
悟性(ごせい)には4×3で12の分類があります。
量・・・単一性・数多性・全体性
質・・・事象内容性・否定性・制限性
関係・・・実体と属性・原因と結果・相互作用
様相・・・可能性・現実性・必然性
ギリシアに遡ると、アリストテレスが「範疇論」の中で、認識を10に分類しています。
実体・量・性質・関係・場所・時・状況・所持・能動・受動
言い方としては、センサーだったり、フィルターだったり、カテゴリだったり、外界にあるモノを認識するために活動する機能と言えます。
ショーペンハウアーは、こういった認識の先にあるものを「意志」として、「意志」の立ち上がりの構造に「共感」とそれを支える「同情」、そしてその奥に「共苦(Mitleid=ミットライト)」があると指摘しました。
かなり根源的なことを言っていると理解できると思います。
この「共苦」という考えに影響を与えたのは、インド哲学や仏教だと言われています。「苦」は根源的で、人々が一番根底で同情、共感しあえると考えたのです。だから、世界が成立している前提には「共苦」があり、そこから「意志」が立ち現れてくる。そして「意志」が、そのように見たいという「表象」を作り出します。
認識の先にあるナニモノか。それを、Expression(神保町サロン)では、ずっと考えてきたわけですけども、19世紀前半にすでに「意志」として、ここまで人間に寄せて考えていたのかと思うと、反倫理的なことをしているようでゾクゾクします。
そして、この意志を肯定するのか否定するのか。意志が生と死のどちらを向いているのか。ここが大きな分かれ目になります。
ショーペンハウアーは、この「意志」が生の方向を向くことに関して否定的でした。
これは欲望と倫理が合わさってできあがった、モノゴトをそう見たいという指向性に対して、理性的な態度でもって遮断したいという強さなのかもしれません。
そしてここがショーペンハウアーのペシミストとして所以です。
ショーペンハウアーは考え抜き、調べ抜いた挙句に、仏教から「涅槃」を取り出しました。
「共苦(Mitleid=ミットライト)」から、逃れるには「涅槃」に行くしかないと考えたのです。
欲望と倫理が合わさった生きようとする「意志」が、痛烈に存在を痛めつけるような状況に対して、涅槃を持ってきて、生きるとは何かを問いなおそうとしました。
これは後に、フロイトが提唱したニルヴァーナ原則に繋がっていきます。ニルヴァーナ原則は「あらゆる興奮やエネルギーを可能な限り小さく、できれば無に近づけようとする心理的機能」のことを指します。この指向性は、古代ギリシア時代のエピクロスにも通じます。エピクロスは、肉体的な快楽を「苦」と考え、精神的快楽を重視しました。
ニルヴァーナ原則で、思い出すのは最近はまっているサウナです。肉体の活動を停止させていく水風呂とはまさにニルヴァーナ原則だなと思います。
そして、面白いのはニーチェです。ニーチェはショーペンハウアーのような考え方はルサンチマン(強者に対し仕返しを欲する弱者の心)が作り上げた幻想だと指摘します。
また芸術についての見方も、ショーペンハウアーとニーチェは対照的に捉えることができ、ショーペンハウアーは芸術を「救い」として見るのに対して、ニーチェはさらに高みに上る「エネルギー」として見ているような気がします。
ショーペンハウアーは、心理学や脳科学の無い時代に「意志」というワードを使って、形而上を探索しました。それにより精神世界にも自由があり、救いがあることを説明しようとし、ニーチェ、フロイト、ユング、ラカンに繋がったと思います。
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