ある機械学習系のベンチャーの経営者と食事をした。その会社はグローバル人材を雇用して、マネジメントにインテグラル理論を応用しようとしていた。ウィルバーと言えば、「無境界」という悟りの感覚を西洋の概念を使って解説している本があるが、それを発展させた理論としてインテグラル理論が位置づけられていたので、すぐに興味を持った。しかし、書籍はすでに絶版になっていて、なぜか中古で1万円を超える値付けがされていたので、その経営者に本を借りて読んでみた。その読後感をまとめた。
インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393360559/hatena-blog-22/
ニーチェはディオニソス的野蛮人 → アポロ的ギリシア人 → ディオニソス的ギリシア人 という流れで精神の成長を俯瞰している。その先は超人となる。ニーチェの超人に対しては、みんなが超人になっちゃったらだれが労働するの?という問いやツッコミはある。
インテグラル理論の応用は、そのツッコミへの対応とも考えることができる。超人的精神構造(レベル)になっても、意識状態(ステート)を行き来させたり、表現などの能力(ライン)を磨いたりして、社会とのつながり、もういっかいアポロと戯れるようなところの領域。一つの具体例として身体維持のための労働の部分をどうするのかとも言い換えることできそうだ。
Integral Flow Experience with Bence Ganti (引用元)
人間は肉体と精神を持つ。肉体を維持するためには食べなくてはいけないし、精神を維持するためには情報と意味付け、ストーリーが必要だ。ストレスフリーでいるために、どうやって満たされている状態の時間を確保するのか。つい最近まで、いや現在も世界は帝国主義的に略奪することで欲望が満たされるという構造が続いている。いわいる欲望と戦争の歴史だ。
SNSなどの情報ツールの発展、経済がグローバル化することによる言語やサービスの混じり合い。そういうことが起きると、今までになかった視点を手に入れやすくなる。これは主に文化に関する感覚質(クオリア)と言えるだろう。
ギリシアのパブリックやポリス、平安京と空海と仏教、ロココ時代の欲望の行きつく先、こういった構造には情報の非対称性があり、文化的な概念やクオリアの共有があまりなされていなかった。しかし、これらの非対称性は縮まってきた気がする。ここから取得できるのは聖なるものと、性なるものとも言える(笑)。
これは生活や活動を充実させるという意味において良い傾向と言えるが、一方で広がっているのはテクノロジーの仕組みに関する情報の非対称性だ。
たとえば、株式のトレーダーやビットコインで儲けている人に対して、なんか良くわからないけど怪しいとか、危ないとか、マジメじゃないとか、印象しか持っていない人がいる。しかし、彼らと話す機会があるが、ぜんぜん怪しくはない、金融工学や数学の知識はもちろん、売買するためのプログラムなどを自ら開発して実践している人もいる。ロジカルとエモーショナルを使い分けてリスクをとっている人もいる。印象だけになって、テクノロジーに対する情報を閉ざしてしまうと、結果的に搾取されていく時代になっているだろう。
本来、テクノロジーは格差を広げるためのものではなく、人間全体の労働を効率化するためにあると考えたい。よく機械学習やディープラーニングの統計的判断が人間の仕事を奪うという議論があるが、それは短期的な議論で、根本的な問題はテクノロジーへの技術的な理解と所有という概念と制度だ。
テクノロジーを基にして社会制度が作られしまうと、かなり強固な帝国になっていく。いまアメリカのテクノロジー企業を中心にこれが起こっているのではないか。テクノロジーは格差の間にある壁になっていく。テクノロジーは使い倒すもので、プログラミングや工学的な考え方を手に入れて、機械やシステムを奴隷してやるぞという個人が立つような感じにならないと、格差は進んでしまう。機械学習やブロックチェーンは最低限の教養として身につけておかないとマズそうだ。
ウェルバーは「現在は科学史観の真を絶対視する風潮が強い」と言っている。ある現象を語るとき、世界をみるとき、私の視点で語りすぎたり、科学的視点から語りすぎたりする。しかし、すべては多面的であり、バランスをとったほうが全体と個として最適になる可能性が高いのだ。どのようなバランス感覚が良いのか それは自分のインナーチャイルドと対話してみる必要がある。自分が本当にゴキゲンな状態とは何なのかを。
プラトンは、イデアは真善美の中にあると説いた。カントは「純粋理性批判」において真を、「実践理性批判」において善を、「判断力批判」において美を探求している。ウェルバーは真善美をビッグスリーと呼んで、真を「それ 三人称 客観的な事実 科学」、善を「私たち 二人称 間主観的な合意 倫理」、美を「私 一人称 主観的な経験 芸術」として表現している。ウェルバーは社会とのかかわりを考えてか、真善美をさらに4つのQuadrant(象限)に分け「私(主観)、あなた(社会)、それ(客観)、それら(制度・文化)」としている。
個人的にはテクノロジーそのものがコンテンツになってしまい過ぎて、それが格差の壁になるようなことが起きてほしくない。コンテンツは美の中にもある。そのためには感覚を研ぎ澄ますために”私”を少しだけ強くしないといけないと思う。
上手にグローバル化するためには、西洋が持っている集団意識、超自我をどうやって相対化するのかがキーになりそうだが、自分の中の超自我や集合意識的なものに集中しても、西洋の規範に行きつく。これは戦後教育のたまものではないかと感じる。その規範を相対化するものっていうのは、なかなか見当たらない。
夏目漱石はポストコロニアルなものを一生懸命探して、イギリスにそのヒントがあると考えていた。最近では姜尚中が静かに動いている感じがする。西洋の思想を相対化できるようなものはいったいどこにあるのだろうか。誰かが概念、クオリア開発を行わなければいけないような気もする。奴隷のいない時代に、世界はどうやって循環するのだろう。
ウェルバーはテクノロジーのことはそんなに書いていないと思うが、教授になるなどのアカデミアの誘いを断り、皿洗いとしての収入で著作を書き続けたというエピソードがあり「自分の著作は、読書と思索と執筆と生活のありかたそのものとが一体となって初めて可能になる」といっている。ちょっと宮沢賢治や吉本隆明入っているじゃんと思った。生活と活動から文化が生まれてコンテンツになり、美へと昇華する。しかし経済社会はそれをなかなか待ってくれない。
はたして、どんな解決方法があるのだろうか。神保町サロンでの思索は続く。
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