「意志に対する身体の態度とアイデンティティ」
(取材・執筆 神保町サロン 石塚・奥山)
『WIRED』日本版主催のWIRED CONFERENCE 2017 "WRD. IDNTTY."に参戦してきた。カンファレンスの目的は「ダイバーシティ(Diversity, 多様性)」と「アイデンティティ(Identity, 自己同一性)」の現代における再定義。アーティスト、写真家、経済学者、医師、哲学者・・多方面14人の話者による、7時間を超える白熱したセッションだった。
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注目したいのは最終セッションの「中動態と<わたし>の哲学」だ。演者は哲学者の國分功一郎さんと医師の熊谷晋一郎さん。二人は神保町サロンでも度々話題になる医学書院のケアをひらくシリーズから著作を出版している。國分さんはその演題にもなっている「中動態の世界」、熊谷さんは「リハビリの夜」だ。ちなみにサロンには「ALS逝かない身体」を執筆した川口さんが遊びにきてくれたことがある。
書籍(「中動態の世界」「リハビリの夜」に関することを少し共有(石塚)
まず中動態の世界の冒頭には、アルコールや薬物の依存症者とのやりとりがある。当事者でもないと、「なぜ止められないのかな?」と自己責任とみなして突き放しがちな問題だ。しかし、依存症は本人の“意志”や、やる気や根性などでどうにかできる問題ではないのだ。そうなると“意志”とはそもそも何かという問題になってくる。
そして「リハビリの夜」の方は、熊谷さんが患っている脳性まひの当事者ルポという側面があるのだが、ただの体験談ではない。さすが医師である熊谷さんは、その体験を理論的にわかりやすく構築していて、脳性まひという身体感覚が無かったとして、その感じがどのようなものか、かなりの想像力を刺激してくれるのである。
では、セッションでの気づき共有していきたい。
向かって左:熊谷さん 右:國分さん
セッションの冒頭で國分さんは分かりやすく“意志”を批判してくれた。(奥山)
「意志は、西洋文化においては、諸々の行動や所有している技術をある主体に所属させるのを可能にしてくれる装置なんですよ。ぼくらの責任の論理では、意志をもって行為したことが証明できないと責任を問えないんです。だから自分の意志で選択肢から選ぶ余地がなかったら責任を問えなくなる。意志という言葉は非常に曖昧であるにもかかわらず、ぼくらはこの言葉なしでは社会を維持できないような体系をつくりあげている。ぼくらは意志と責任を一体化させた法体系を信じているんです。しかし、この意志という概念は非常に大きな矛盾を抱えているフィクションなんです。」
現代社会において、自分の意志で何かをすることはその人自身の意志が行動の出発点となることを意味する。つまり、意志とは、過去を断ち切って責任を明確にすることに使われているのだ。しかし、実際には因果関係が無限に遡れるため、本当に何もないところから何かが起こることなどありえないのだ。
たとえば、ある男性が交通事故を起こしたとしよう。その男性には妻があり、妻は浮気をしていた。それがもとで喧嘩になり、イライラをひきずりながら一人で運転していて事故を起こした。事故の責任を問うためには、男性が車に乗る意志決定をした、それ以前の過去はなかったことにしなければならない。法律もそのようにできている。
また、今日は「パスタを食べるぞ」と思ってパスタを食べたとしよう。それは一見意志が行動の出発点になっているように思えるが、実際は雑誌パスタ特集を見て食べたいと思ったかもしれないし、友人にあの店のパスタは美味しいよと言われたかもしれない。そもそも「パスタ」の存在をしらなければそんな気持ちは生まれるわけがなく、意志がすべての始まりになっているわけではない。このようにわたしたちは責任を問うために因果関係を恣意的に策定しているのかもしれない。繰り返しになるが、國分さんはそれを「意志というのはフィクションだし信仰だ」というのだ。
現在、日常をよく使う「能動態/受動態」が「する/される」によって行為を分類するとすれば、「能動態/中動態」は行為が主語の「外側/内側」のどちらにあるかによって行為を分類する。國分さんが例として挙げた「惚れる」は自身の内側で行為が展開しているため中動態だというわけだ。中動態がある種出来事を描写するような言語であるのに対して能動態/受動態は行為者を確定させる言語だと國分さんは指摘する。ジョルジョ・アガンベンを引きながら、 さらにそれは行為者が自分の意志でやったのかどうかを「尋問」する言語でもあると語った。
(國分さんの「能動態/中動態から能動態/受動態に移り変わり」を示すスライド から)
いつからか「自己責任」という言葉が幅を利かせるようになったが、実のところ意志と結びついていない責任はいくらでも存在する。中動態について考えることは、「意志」と「責任」という概念と不可分かのように考えられている「わたし」を解きほぐしていくことに繋がっていく。
<國分さんの 意志に対する問題提起のスライド>
超越論的な意味の立ち上がりには、意志は存在していなかった。(石塚)
神保町サロンではよく「超越的・超越論的」といった感覚質が話題になるが、中動態の書籍の中にも超越論的というキーワードがでてくる。それはパンヴェニスとの中動態の定義「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」といったものだ。國分さんはこの定義をカントの言う意味で超越論的であり、われわれが物事を経験する際の条件そのものを問うていると指摘している。
パンヴェニストの分析を借りれば、「生まれる、眠る、想像する、成長する」などは、動詞は主語がその座となるような過程を表しているために中動態となるが、驚くべきことに「存在する、生きる」などの哲学的な感覚質は、流れるや行くと同様に、主体の関与が必要ない能動態(この能動態は中動態と対応する能動態のこと)扱いなのだ。現在の能動/受動の感覚からは考えられないような捉え方だ。ここでわかることは、意志なんてまったく前提になっていないということの再認識だ。古代ギリシア人たちは意志なんて、まったく関係なく言葉を使っていたのだろう。これはデカルトがでてくるまで、ある程度続くことになるのだから驚きだ。いかに我々が近代的なものの考え方に支配されているかが分かって、ちょっと恐ろしくもなる。
身体と中動態の結びつき(奥山)
熊谷さんは、國分さんが『暇と退屈の倫理学』を出版して以来、「暇」や「退屈」と依存症の結びつきについて議論を重ねてきたという。トラウマを抱えた人々は暇になると、過去の耐え難い記憶が蘇り、それに耐えるために薬物や自傷に手を出してしまう。それは過去を打ち消すために発動する行為ともいえるが、熊谷さんは、記憶に対するこうした身振りは退屈に対する気晴らし行為や、これまでの意志の在り方に直結するものであると指摘する。それは中動態的な生を否定するものでもあるという。
熊谷さんはセッションでこう語った。「過去の記憶の蓋が開けば地獄が訪れる人にとっては、蓋が閉まっていたほうがいいわけです。つまり、過去を切断したい。それ以上遡れない状態にしたい。いまを出発点にしたいと考えてしまう。それほどまでに過去が地獄だとしたら、無から始め直したい、意志の力によって現在もしくは未来しかないという生を生きたいと思っても不思議ではない。つまり、中動態を否定したい、100パーセント能動態の状態になりたいと思ってもおかしくはないと思うんです」。
熊谷さんは、意志というフィクションによって過去と行動を切り離したとしても、そんな戦略はうまくいかないのだと指摘する。依存症からの回復においては切断してきた過去の記憶にもう一度目を向ける必要が出てくると述べる。そして、依存症からの回復のために採用されているプログラムが実は「中動態」と密接に結びついていることを明かした。また、依存症の自助グループのなかで採用されている『12ステップ』というプログラムのなかでは、人を能動態から中動態に戻す装置が張り巡らされているという。
例えば、アルコール依存症の援助団体である「アルコホーリクス・アノニマス(AA)」(http://aajapan.org/introduction/)の12ステップのうち冒頭の三つを抜粋してみてもそれが分かる。
私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
依存症の脱却プログラムの冒頭で、自分のコントロールではどうにもならなくなったと意志に対するこだわりを捨てる。そして、ステップが進むにつれて、過去を振り返り、さらにもう一度引責のステップが来るようだ。意志とは異なるかたちで「責任」という概念を考え直すことは、國分さんが中動態研究を通じて行っていることでもある。熊谷さんはそれを依存症という当事者研究から読み解き、そこに中動態との結びつきを見出している。
「意志とは違う位相で責任を引き受け直す」とは何か。(石塚)
カンファレンスよりちょっと前に、ワイアードのウェブサイトで、國分さんと熊谷さんは対談をしている。
國分功一郎×熊谷晋一郎:「中動態」と「当事者研究」がアイデンティティを更新する理由 #wiredcon|WIRED.jp
ここに熊谷さんのこのような発言があった。
「過去を振り返り、さらにもう一度引責のステップが来るんです。これは意志とはまた違う位相で責任を引き受け直すというプログラムになっているという直感があったんです。」
この「意志とはまた違う位相で責任を引き受け直す」という部分が今後の哲学のヒントになるのではないだろうか。ヤスパースの「罪」の概念、カントの『道徳形而上学原論』における定義、そしてスピノザの「本質」や「流動的なもの、軟らかいもの、硬いもの」「コナトゥス」などの感覚質で世界を捉えなおすことによって、医学的な診断や、果ては刑法の責任の所在まで変えるようなところまでたどり着くことがあるかもしれない。
インタビューの機会があれば熊谷さんに「意思とは違う位相」とは何か聞いてみたい。
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