日本ではある性の在り方を、X(エックス)ジェンダーと呼ぶことがある。女性とか男性とかのレイヤーではないメタな概念という感じだ。
Xジェンダーと名付けた背景には、プログラミングで使われる変数、つまり 何を入れても良い変数Xだよ という意味があったに違いない。
プログラミングにおいて代入は「assign」で、割り当てるという感覚。自分で割り当てているという当事者感がある。普段はセクシャルを意識していないが、ある文脈がきたときには、一瞬だけ明確になったり、ブレンドしたり、また靄になったり、意識しなくなったり。そういう感覚は、プログラミングの変数へのアサインに近い。
では、観察者的な視点からXを見た時どうなるかというと、未知・不定なる何かであって、ジェンダーに置き換えてみると、ジェンダークイア(queer)と呼んでしまう感覚になる。男性・女性などのアイデンティティを持つ人が、Xジェンダーを外部からみると、女性とか男性とかと同じレイヤーのアイデンティティを代わりに置きたくなる感じだ。
心理学にはアイデンティティを持たないといった意味でモラトリアムという概念があけれども、変数やモラトリアムという感覚、さらには現象学的なエポケー(モノゴトをいったんカッコに入れておく)を理解しているとXジェンダーという感覚を掴みやすくなるんじゃないだろうか。
Xジェンダーの研究者 Dr.ソンヤ・ペイフェン・デール氏はXジェンダーという概念・言葉について、こう指摘している。
「2013年にウィキペディアにXジェンダーが掲載されることで、定義が固定化されてきてしまった。それ以前にXジェンダーを自らのセクシャルを説明する概念として使っていた人たちが、もう使わなくなってきた」
Dr.ソンヤ・ペイフェン・デール氏
https://www.youtube.com/watch?v=BTG3kML7Cxs
http://intersections.anu.edu.au/issue31/dale.htm
言葉や概念は広まるにつれて内容が固定化する。言葉が素材として情報交換に使われるため固定化するというのは一つの言葉の良いところだが、せっかくXと言っているのだから、XはXのままでいいのだ。
2017/6/14の神保町サロンには大阪大学大学院(人間科学研究科現代思想)で哲学を研究しているイリヤさんがゲストで来てくれました。
「il y a」とははフランス語で「存在する」という意味。イリヤさんはレヴィナスやフッサールを使ってジェンダーを研究しています。
イリヤさんはXジェンダーについてこう語る
xジェンダーに関していえば、そもそも「ジェンダー」という概念を否定するような存在なので、「ジェンダーX」=「ジェンダーとはそもそも記号化できない」という名称の方が良いのかなと最近は感じています(「Xジェンダー」だと、ひとつのジェンダーとして実体化されてしまうおそれがありますし、事実、そういう流れが出てきているので)。
神保町サロンの様子(2017/6/14)
性ってどのように捉えるとわかりやすくなるだろうか。ちょっと簡略化しすぎではあるけれども、何もトッカカリが無く理解が難しい場合には、「生物学的な性別」、「ココロの性別」「恋愛対象/性的指向」の軸に分けて考えれば日常生活では十分ではないだろうか。(せっかくXジェンダーとしているのに、議論を戻すようで、なんとも言えない気持ちにもなるけど…)
・「生物学的な性別」男性/女性/両性
・「ココロの性別」男性/女性/X
・「恋愛対象/性的指向」男性/女性/バイセクシャル・パンセクシャル(両性・全性を愛せる)
たとえば、身体は男性だけど、ココロがXだったり、女性だったりして、恋愛対象がパンセクシャル(全性を愛せる)ということがある。外側からみるとノーマルに男性が女性を好きと思われるかもしれない。
だけれども、身体が男性っで、ココロが男性で、恋愛対象が女性の方とは、ふるまい方や、恋愛の仕方など、かなり違いがでてくる。
イリヤさんがサロンの雑談の中で、「ヘブライ語にはbe動詞にあたる言葉はない。レヴィナスがbe動詞を避けて『存在の彼方へ』を書いた理由はそこにある。男性や女性になっているのではなくて、なるのである」と言っていたのがとっても印象的でした。
また、イリヤさんはこの区分に対して、アドバイスをくれた。
「ココロの性別」と「身体の性別」という区分についてなのですが、たしかに性同一性障害の基準でも「心の性と体の性が一致しない状態」と定義されており妥当な区分です。しかし、この区分にはいわゆるデカルト的な心身二元論の焼き直しではないかという疑義があります。「そもそも心に性はあるのか(中村美亜さん)」という著作があるように、いわゆる「ジェンダー」を心に帰属させることができるのかもっと根源的な問いがあるのです。そのために僕はトランスジェンダーを「ジェンダー」からではなくあくまでも「違和」から論じることにしています。
LGBTという性の多様性はブームになっているけれど、結局は個々人のアイデンティティの確立問題や、説明のめんどくささ、数の空気に押し込まれるなどの課題をどう解決するかということが大切。
エポケーのような哲学的な認識の方法論を持っていると、すんなりとXジェンダーと言われても、そうなんだー と納得できるはず。様々な人の認識法に対して憑依できれば、コミュニケーションは円滑に進むはず。
男性、女性という言葉が、身体のことだけでなく、ココロの指向性までも規定するような強い拘束力を持っていることに気づいて、それをひっぺがしてみる。
神保町サロンや、いりやさんが主催する哲学カフェでは、違和を感じた人が、気軽に好きに発言できるような環境があります。違和を普通に話せるのって、楽になるし、活動的になるし、遊びが始まるって感じです。
石塚
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