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「遊びに自覚的になって、遊びを自ら作って行こう」

執筆者の写真: 石塚石塚

昨日、板羽さんの主催する知恵をつなぐイベントWSWS(ウズウズ)のピッチイベントに参加しました。僕は「遊びに自覚的になって、遊びを自ら作って行こう」という思いを提案をしました。


なぜテーマを遊びにしたのか。それは、遊ぶのがなんか悪いような、いつも労働していないとなんか悪いような、そんな雰囲気に対してなんとなく腑に落ちてない感じを問うためだった。と終わってから振り返ることができた。


ハンナ・アーレントは「人間の本質」という本の中で、人間のエネルギーの使い方を「労働」「仕事」「活動」の3つにわけた。(アーレントはこのエネルギーをヴィタ・アクティーヴァと呼んでいる)


労働は身体を維持するのに、どうしても必要なこと。ここの定義はなんら変わりなく使えると思う。そして活動は遊びと解釈して、仕事をアートとすると、自分としてはしっくりくる。


(アーレントの定義) ---------------------------------------------- 労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。

仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が、永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。

活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。 ----------------------------------------------


青年になると「自分とは何か」「自分には何ができるのか」「他人との区別はなにか」といった問いを持ち、そして、なぜかある時、「これこそが本当の自分だ」といった実感を得たりする。そういうものを自己同一性(アイデンティティ)と言ったりする。


自己啓発にハマったりするのも、この自己同一性がほしかったりするためだ。そして、その問いを根源的に考えることなく後から自己同一性の理由をツギハギ理論で補強したりしてみる。そして、それが上手に説明できるようになると、なぜか周り褒められたりするのでやめられない。しかし、それは言葉であって、実体ではない。


たまに、なぜこの労働をするのかという問いに対して、自分しかできないなどという自己同一性を重ねてしまう場合がある。自分もそう考えていた時期がある。しかし、それはアートの領域にまで達していたり、もしくはアートを目指しているのであればよいのだが、労働のために自己を重ねるとロクなことは起きない。もう一度確認すると、何のために労働するのか、それは身体の維持のためだ。


いまの社会はなんでもパッケージ化されている。それは流通でコストを落とすためだったり、商品やサービスを捉えやすくするためだ。パッケージは記号だ。記号として見えるとほとんど中身を吟味することなく、記号と貨幣の交換が行われしまう。そうなるとパッケージ化のための労働時間が増えて、活動時間が減るということが起きる。欲望を手短にかなえようとすると、本人の活動は奪われるし、誰かがそのために労働しなければいけないことになる。そういう仕組みが見えてきた。この点は食と性という観点から考え直してみたい。

話を戻す。


WHOは痛みを4つあると定義している。

1、身体的  身体の痛み 2、心理的 不安、恐れ、苛立ち、孤独など 3、社会的 仕事や家庭や地域の問題 4、スピリチュアル 人生の意味、罪の意識、死の恐怖


そして、これらは絡み合っていて、人の意識の情動体験として痛みが現れる。社会的な問題から始まって他の痛みが合わさってくることもあるのだ。痛みの根源を解決できれば良いのだか、その原因が仕事や家庭となってくると自分ひとりで解決できるものではなくなってくる。仕事や活動ではなくて、労働が増えると社会的な痛みは増すのではないかと考える。

最低限の労働は良いとして、精神にまで入ってくる労働から解放されるために、遊びという概念を思い出したらどうかという提案をした。遊ぶことで、仕事や活動の本質が見えてくると思えるからだ。


ロジェ・カイヨワは遊びをその質から大きく4つに分類している。そして、これらを簡単にはしゃぎながら遊ぶことを遊戯(パイディア)と呼び、ルールができて型ができるようなものを競技(ルドゥス)とした。

1、アゴン(競争) とっくみあい(遊戯)、スポーツ(競技) 2、アレア(運) じゃんけん(遊戯)、宝くじ(競技) 3、ミミクリ(模擬) ごっこ遊び(遊戯)、演劇(競技) 4、イリンクス(眩暈) 子どもがぐるぐる回る(遊戯)、登山(競技)


乳児期には眩暈を覚え、幼児期には模擬を、児童期になると競争、運を試し、思春期・青年期以降になるとスポーツ活動、文化活動を趣味として楽しむことで、遊びを獲得していく。これからは活動やアートの源泉になっていくものだと思う。


このあたりを意識して労働を捉えなおすことで、何をしたいのかが見えてきて、活動と労働を区別しやすくなるんじゃないだろうか。


カイヨワの4つの遊びは、テレビゲームやスマホゲームの開発において、いかにユーザを楽しませるかという設計の基に使われていたようだが、最近では「ゲーミフィケーション」という概念もでてきた。課題解決のためにゲームデザインの技術やメカニズムを利用する活動全般のことだ。発表後には参加者とゲーミフィケーションのディスカッションを別にしてみたいという意見や、モラトリアムなどについて意見を頂いた。


ということで、神保町サロンでは、こんなことなどを自由に語っております。ご興味あるからはメッセージくださいませー。フォー。


※追加

松岡正剛がアーレントの人間の条件を解説したとき、下記のような指摘をしていた。 ---------------------------------------------- ポリスは明るい地上性に富んでいるところだが、オイコスは暗い地下世界とみなされた。オイコスはアジア的で未開拓な、土地に根付いた野蛮なものとみなされたせいだっ  そこでオイコスの代表(家長)がポリスをつくるメンバーになるという制度をつくった。これをノモス(制度)という。ということは、ポリスはオイコスという経済的な下部組織をもとにできあがった地上の楽園であるということになる。

このようにノモスが正当にはたらいたとき、このポリスを「公」とみなしたのである。逆に、オイコスは「私」だった。英語で私的性をあらわすプライベートという言葉は、ラテン語の"privatio"から来ているが、これはもともと「公が欠如している」という意味なのである。  一方、ポリス的なるものはラテン語の"publica"などをへて、英語のパブリックになった。そこから「公表する」という意味のパブリッシュ(出版)や、リパブリック(共和制)という言葉が生まれた。  このように、古代ギリシアの公共生活とは、オイコス(エコノミー)から出て公共領域に入るということだったのである。 ----------------------------------------------


労働から解放されるために公共という概念が生まれてきた。しかしギリシア時代の公共は平安京のような感じだ。これは非常に帝国主義的。やっぱり僕らを支えるにはロボットが必要なのだと思えてくる。「公共を自分たちの手に取り戻す」といったのは、神保町の某編集長。

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