ミシェル・フーコーは、「言葉と物」 の中で「ニーチェは時間の終焉・人間学的有限性・歴史の連続する大きな鎖を取り上げるが、それは、神の死と末人の彷徨を謳いあげ、超人の奇蹟的跳躍を現前せしめ、回帰の無限の中で〈歴史〉の向きを変えるためであった。」と書いている。
「跳躍によって歴史の向きを変える」ここの文脈に個と集合の答えが詰まっている。そのイメージは内観によって泡として確認できた。
倫理や感情や本質と思われるもの、これらは欲望という基礎的なもの、産まれてからの家庭環境や教育によって作られる執着や第1秩序、そして個人的な体験を超えたDNAやミームを含む人類の記憶などによって作られている。これらは真善美と言ってもいいかもしれない。
仏教的な心というイメージ、西洋の意識という概念、現代ではこれらは存在と認識の両軸が混ざり合ったワードとして書かれている。過去の哲学者たちが残した書籍には存在と認識がごちゃごちゃとして書かれているが、現代では心や意識というワードに引き継がれているのだ。
そして、心や意識に立ち上がってくる先ほどの真善美の生成過程を存在と認識の両軸から感じ、時間軸でさえフラットになったとき、倫理や感情や本質と思われるものとは違った感じで秩序系が生成されてくるだろう。その現象は現在の経済活動の中に個人的な意識活動として、これまた泡のようにポツポツ生まれ、物理世界に影響を及ぼし、次第にミディアムな組織系になってくると予感できる。おそらくリアリティの要素が変わり、流通にも変化がでてくる。
認知の世界と物理世界がどのような関係性を持つのか、それはインターフェース開発に大きな関わりがある。自分はそれを実験しながらビジネスを進めていきたいと思う。
ビジネスだって長いものにまかれていくのだ。。。
新しいビジネスプランを書き始めよう。
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