「不倫(中野信子)」
- 石塚
- 2018年9月6日
- 読了時間: 6分
更新日:2018年9月16日
本日の神保町サロン昼の部は、並ぶカレーハンバーグ店 「タケウチ」に。そして神保町の渋い喫茶店へ。
参加者は既婚者しかおらず、テーマは「不倫」へ。
まず、不倫の語源を調べてみたのですが、古来からある言葉ではなく、一説によると金曜日の妻たちというテレビドラマが普及させたという説明もあるほど、現代的な言葉であるようです。
不倫という言葉は一般的には、一夫一婦制という近代的な制度から外れて、婚外で不貞行為を行うという意味で捉えられていると思います。
そして、その前提になっているのは、いわゆる結婚式の時に誓う貞操観念の象徴である次の言葉
「新郎(新婦)となる私は、新婦(新郎)となるあなたを妻(夫)とし、良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います。」
というワードに詰まってくるのかなと話題になりました。
この誓いが破られるとき、破られそうなとき、この感覚質に感情がくっつき、権利という言葉もくっつき、態度として表出してきて、「倫理的ではない! 不倫だー」と声になってくるのではないでしょうか。結婚の相手を攻撃することもそうですし、ワイドショーななどで、赤の他人の不倫を攻撃することは一種の正義感の現れでもあると思います。
この「正義感(西洋風)」、東洋的には「義」は
1、いつか死んでしまうのなら、今この瞬間の命にウソをつきたくない。恋をしたい。
2、自分より社会秩序や家族制度の方が大切だ。だから自分を犠牲にするのは当たり前。それを乱すやつはずるいし、許せない。
という 二つの衝動の中で揺れているとも考えられると思います。輪廻などが存在している一部の宗教になると、我慢したら現世や来世で見返りがあるはずとも期待するかもしれません。欲望と倫理の間で揺れ動いているわけです。(もちろん 結婚相手に恋をしている場合はこの限りではありません)
先月(2018/08)に脳科学者の中野信子さんか『不倫』という書籍を出版されました。
そこには、こんなことが書かれていました。 ------------------------ 不倫をすれば、有名人でなくても、社会的信用や家庭を失い、慰謝料など経済的なリスクを負うことになります。失うものが大きいとわかっているはずなのに、なぜ世の中には多くの不倫カップルがいるのでしょう?
近年の脳科学で「人類の脳の仕組みは一夫一婦制に向いているわけではない」ということがわかってきました。人類の祖先を含む哺乳類の多くは一夫多妻や乱婚が多いのです。一夫一婦制が基本で「不倫=悪」という倫理観が出来たのは、長い進化の歴史から見るとごく最近のことなのです。そして、私たち人類の約5割は、いわゆる「不倫型」の遺伝子を持っています。
人類は社会的動物です。国家、家族、会社、学校やサークルといった共同体を維持することによって、人間社会は成り立っています。共同体は、その資源(リソース)を増やすために構成員(個人)がそれぞれ一定の協力をし、共同体からリターンを受け取ることで維持されています。ところが、なかには共同体のリソースを増やすための協力をせず、リターンだけを受け取ろうとする者もいます。自分は汗をかかずに、おいしいところだけをごっそりもらおうという輩です。それを「フリーライダー」と呼びます。
人には、共同体の「フリーライダー」を検出して社会的制裁を加えたいという本質的な欲望があります。「ズルをしておいしい思いをしている人」に敏感に反応し、そうした人を叩きのめすことが「正義」と信じて、バッシングを繰り広げるのです。バッシングには快楽がともなうという仕組みも、脳に備わっているのです。 ------------------------
「不倫型遺伝子」については疑問がまだ不明な点がいくつもありますが、倫理の出方の説明としてはまあそうかあと思うわけです。
トルストイの名作に『アンナカレーニナ』という小説がありますが、主人公のアンナは、神の掟をやぶる行為(不倫)をしてしまい、社会的には制裁を受けて、不幸な人生の結末を迎える。一方で、農村で実直に生き、信仰に目覚たリョービンは、安定した幸せな暮らしを掴んだように描写されます。アンナとリョーヴィンとが対比されて、生きるとは何かが問われています。
『アンナカレーニナ』の冒頭には、こう書かれています。
「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。」
定型的な幸せを少し皮肉ったようにも感じられます。
そして話の中で、こんな名言がでてきます。
「もし善が原因をもっていたとしたら、それはもう善ではない。もしそれが結果を持てば、やはり善とは言えない。だから、善は因果の連鎖の枠外にあるのだ。」
トルストイは、善(倫理)は因果ではないと宣言しています。善は見返りを期待するものではないのです。釈迦と同じようなことを言っているなと思うわけです。もう少し言うと、善の本質とは変化の源を取り入れて、変化を受け入れる態度を持つことと言い換えられると思います。
不倫という言葉に倫理的な力を持たせる意味を考えると、倫理と欲望が揺れ動く、善の本質とは何かを考えるきっかけになるのではないでしょうか。
人は変化をしなければ生きる喜びを見失うこともあります。存在は遊戯の中にみつけられることもあります。一方で、社会秩序は数年で変わる場合もあります。楽しさよりも苦しさが勝る制度では、いずれ息苦しさが支配するようになります。
不倫という現代が生み出したワードは、どこに転がっていくのか。
今日は「なぜ不倫をするのか?」という問いよりも
「なぜ不倫という言葉が生まれ、運用されているのか」
という問いにした方がしっくりすると学びがありました。
※せっかくなので、家族制度についても少しメモがてら。。。。
フリードリヒ・エンゲルスは家族制度のことを「家族・国家・私有財産の起源」の中で「家族制度は財産や職業などを世襲する目的で制定されたものが多い」と語っています。家族制度はもともとは社会秩序の維持するために作られていると言っても過言ではないでしょう。
もうひとり、家族制度について詳しく研究している学者にエマニュエルトッドという人がいます。
トッドは、家族制度を世界的に見て4つ(直系家族・共同体家族・平等主義核家族・絶対核家族)に分類しています。
1、直系家族 。いわゆる家父長制のこと。父親の権威が大きく、主に長男が財産を相続し、原則として家に残る。ちょっと前の日本? トッドは日本をここに分類。韓国やドイツもここ。
2、共同体家族。父親の権威はありつつ、財産の相続権は兄弟姉妹に平等。共産圏に見られる制度。東欧やロシア、中国もここ。
3、平等主義核家族。子供が家を継ぐわけではなく、子供は成人したら独立し、親が死んだら財産は兄弟姉妹の間で平等に分配。イベリア半島、イタリアの一部、パリ盆地のあたりなどに分布。ラテン系核家族とも言われる。
4、絶対核家族。3の平等主義核家族と同じように子供は家を継がずに独立。しかし、財産の分与は平等ではなく、親の委ねられ不平等。ヨーロッパだとイングランド、デンマーク、オランダ。そしてアメリカ、カナダ、オーストラリアなどが該当。
トッドは、それぞれの家族制度の下では移民政策などによって差異があると指摘しています。これは善の出方の差異であり、不倫をどう扱うのかということにも関係してくると思います。今後、からめて考えていきたいなーと。メモでした。

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