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  • 執筆者の写真石塚

時を司るお月様。(清澄庭園 観月会)

9月27日、尊敬する先輩が主催する観月会がありました。


場所は清澄庭園の涼亭(りょうてい)。涼亭は、お庭から池に突き出るようにして建てられている数寄屋造り(お茶室風)の建物で、明治42年(1909)に英国から国賓として来日したキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建築しました。建て替えなどを経て、2005年に「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。

清澄庭園の涼亭
清澄庭園の涼亭

キッチナー元帥のことは、夏目漱石がという小説の中で触れています。当時の新聞などは、世界的な武人英雄としてのキッチナーの動向を、逐一報道していたようなのですが、夏目漱石は、それとは対照的な文人としての自分を映していたようです。


今年の観月会は、能楽師の河村晴久先生がゲストとして来てくださいまして、月にまつわる演目の「融(とおる)」を解説して下さいました。


「融(とおる)」は能の五番目物で、貴人物・太鼓物に分類されます。作者は世阿弥です。演目のタイトルにもなっている主人公、源融(みなもと の とおる)は、平安時代初期の貴族で、第52代天皇である嵯峨(さが)天皇の皇子です。


嵯峨天皇には49人の子どもがいたそうです。しかしながら、当時はそれが国の財政圧迫の原因となっていたようで、皇位継承の可能性がない皇族には姓を与えて、皇族に仕える貴族として働いてもらうシステムを採用したそうです。


そこででてくるのが「源氏」という姓です。その他にも平氏・藤原氏・橘氏などがあり、主にこの4つの性を「源平藤橘(ゲンペイトウキツ)」といわれたりしています。


主人公の源融(みなもとのとおる)は、天皇の皇子でありながら、王位継承のチャンスが無くなり、源氏の姓を賜り家臣になります。しっかりと仕事をしたようで左大臣にまで上り詰めますが、台頭してきた藤原氏との政権争いに負け、隠居生活に入ってしまいました。


融は、京都の六条河原に大邸宅を築き上げて、難波にある港から潮水を邸宅まで運ばせて、窯で焼いて、塩を作ることを趣味としたそうです。それって財政圧迫じゃんというツッコミが入りそうですが。そこはあえてツッコミません。


能「融(とおる)」の舞台となるのは、時代が進んだ融の大邸宅の跡地です。東の方から僧侶がやってきて、ある老人と出会います。


「能楽百番」月岡耕漁(文化デジタルライブラリーより)
「能楽百番」月岡耕漁(文化デジタルライブラリーより)

僧侶は老人に素性を尋ねると、老人は潮汲みと答えます。ここは、海辺でもないのに潮汲みは変だなと思っていると、月がでてきます。


(老人)

おや、月が出ました。


(僧侶)

ええ、月が出ましたね。

あの籬が島の森の梢に、鳥がとまって囀り、

柴門(しもん)に移る月影までも、往古の秋、

すなわち古秋に、月光を浴びて門前に佇むかのような錯覚を覚えます。


(老人)

何と、この目の前の景色をご覧になり、遠く古人の心にまで達して、

お坊様ご自身のことのように思われるとは。

もしや賈島(かとう)※の詩のことではありませんか


※賈島(かとう)とは中国、唐の時代の詩人のこと。


そして、言葉を交わすうちに、老人は、昔話を語りだします。

「能狂言画帖」(文化デジタルライブラリーより)
「能狂言画帖」(文化デジタルライブラリーより)

(老人)

昔、嵯峨天皇の御代に、融の大臣が陸奥の千賀の塩釜の眺望の素晴らしさを耳にされ、都の内に塩釜を移し、あの難波の奏から毎日海水を運ばせ、ここで塩を焼かせ、一生風雅にお暮しになった。けれども大臣が亡くなられた後は、相続し暮らす人もなく、浦はそのまま干潟となってしまった。池のほとりによどむ水たまりは、雨の残り水。その古い入り江に落ち葉が散り浮き、松陰の月さえも澄んでは見えず、秋風の音だけが残るばかり。それゆえ歌に「君まさで 煙絶えにし塩釜の うら淋しくも見え渡るかな」と貫之※も詠んだのですよ。


※紀貫之(きのつらゆき)は、平安時代前期から中期にかけての歌人。



そして、老人は潮を汲むモーションを印象深く見せると、姿を消します。姿を消した後の余韻はなんとも言えません。僧侶は、老人が融の幽霊だったのではないかと、思いながら眠りにつきます。そうすると、融の亡霊が現れ、月光に照らされながら華麗に舞い、夜明けになると、またもや余韻を残して、月の都へ帰っていきます。

「能楽図絵二百五十番」月岡耕漁(文化デジタルライブラリーより)
「能楽図絵二百五十番」月岡耕漁(文化デジタルライブラリーより)

河村先生は、分かりやすく内容を解説して下さいながら、時に台詞を謡い、舞ったりしながら、ビジョンを提示してくれました。また、天文年鑑で月の出る方向を調べ、本当に月に帰っていくような方角に舞台を作った話などもして下さいました。

河村 晴久先生
河村 晴久先生

当日、一瞬だけ姿を現したお月様にも感謝。写真は大籏英武さんが撮影。

観月会でのお月様
観月会でのお月様

時を表す単位として、月と日があります。月と太陽のことです。現在は、一日の周期は相変わらず太陽の昼と夜で感じていますが、ひと月の周期を月の満ち欠けで感じることは少なくなりました。


都市を離れ、山などに行くと月明かりを意識を強く意識することがあります。能が書かれた時代には、いまよりももっと月明かりが重要な意味を持っていたでしょう。


ひと月というスケール感は、過去や未来を内包する、無限な感覚とも繋がります。


月は時や無限といった、現象を認識するためのモノサシを与えてくれる存在だったような気がします。


融は、幽玄として現象した後に、時を司る月に帰っていきます。そこには過去も未来も含まれる無限の世界があったのでしょう。



※写真は大籏英武さんです。

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