赤坂憲雄さん著の『性食考』を読んだ。本の冒頭には開高健の『裸の王様』の一文がでてくる。開高健は性欲・権利欲・食欲という三つの欲望をヒトの「根なるもの」と呼んだ。これらはたがいにからみあい、かさなりあい、ときに反発し合う。『食べちゃいたいほどカワイイ』はそのことを表したそのままのワードと言える。言われたほうは怖いけれども(笑)。
本書の中で自分の考察が進んだところは、死と性と食をからめて解説しているところだった。
仏教の修行の一つに不浄観(ふじょうかん)というものがある。不浄観とは身体の不浄さを観する行法で、自身や他者の身体が腐敗・白骨化していく様を観想し、自分の身体への執着や、性欲などをコントロールする方法だ。修行には主に九相図(くそうず)という死体が腐敗して白骨になるまでを9つの段階で示した図画が使われているらしい。この九相図をみてみると、腐敗と白骨からは違った感覚を得られることがわかる。
死への嫌悪の要因は主に腐敗にあって、肉体が朽ちて存在が消え去ってしまう恐怖や、死の瞬間の覚悟のような味わい、腐敗臭や嘔吐などの身体感覚が立ち上がってくるのだが、白骨までいくと、安定感やある種の秩序のようなものを感じるようになる。即身仏にも何かホッとするようなものを感じるのも不思議なことだ。
『性食考』では死への嫌悪に対して『古事記』のイザナキによる黄泉国訪問譚を例に挙げていた。イザナキは亡くなったイザナミが恋しくなり、黄泉の国を訪ねる。しかしそこでウジ虫がたかっているイザナミの姿(うじたかれころろきて 宇士多加礼許呂呂岐弖)を見て、逃げ帰ってしまうというシーンだ。『日本書紀』ではこのシーンのことが「膿沸き虫流る(うみわきうじたかる)」と表記されている。
現代人の多くが人体の腐敗を意識するのは戦争映画や漫画だろう。『はだしのゲン』を思い出す人もいると思うが、最近だと『この世界の片隅に』があるだろう。『この世界の片隅に』では、原爆投下された広島の市中で、朽ちてゆく母親にたかるハエを追い払う女の子の描写がある。そしてシーンの最後には母親の耳から大量のウジ虫が零れ落ちる。
文学が好きならば夢野久作の『ドグラ・マグラ』がある。『ドグラ・マグラ』の中には、呉青秀(ごせいしゅう)という空想の画家が登場し、妻が腐乱していく様を6段階に描いた九相図に似た絵巻物がでてくる。青空文庫にその描写があるので、こちらに引用する。
『ドグラ・マグラ』(夢野久作) 青空文庫
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第一番に現われて私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白せっぱくの肌で、頬や耳には臙脂えんじの色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃い睫毛まつげを伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔おとなしそうなみめかたちを凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。
第二番目の絵になると、皮膚はだの色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらか腫はれぼったく見える上に、眼のふちのまわりに暗い色が泛うかみ漂ただよい、唇も稍やや黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の背後うしろと、腹部の皮膚の処々が赤く、又は白く爛ただれはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のように膨ふくらんで光っている。
第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、爛れた処は茶褐色、又は卵白色が入り交まじり、乳が辷すべり流れて肋骨が青白く露あらわれ、腹は下側の腰骨の近くから破れ綻ほころびて、臓腑の一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトに濡れて脱け落ちた髪毛かみのけの中からは、美しい櫛や珠玉の類がバラバラと落ち散っている。
第五になると、今一歩進んで、眼球が潰ついえ縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑は腹の皮と一緒に襤褸切ぼろきれを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになってしまい、肋骨あばらぼねや、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた恥骨ちこつのみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている。
最終の第六図になると、唯、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。
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またアート系で言えば、松井冬子さんの作品の中に「浄相の持続」という九相図に近い描写の絵がある。臓器の書き込みをデフォルメしていたり、子宮に赤ちゃんがいたり、周りは綺麗に咲く花で彩られていたり、解釈にある種の複雑さを伴うが、腐敗というよりは美しいままで留まっているような描写となっている。
「浄相の持続」松井冬子さん
この感覚質はコミケやゲームの方にも見受けられる。ネットスラングだと「リョナ」というワードがある。「リョナ」は「猟奇的」と「オナニー」を組み合わせた造語で、『本当に正しいフェティシズム 性的嗜好大事典』によると、その要件は「被害者が女性であること」と、「性的虐待の要素が無いか、シチュエーション上でそれほど重要なウェイトを占めない」という2点とされている。被害者が男性の場合は「逆リョナ」と言うようだ。加害者は人間ではなく怪物を加害者とする描写も見られる。似たようなことを匂わす言葉としてとしてヒロインがピンチになる「ヒロピン」もある。まあでも、九相図のようなウジが湧くような描写は少なく、腐敗や匂いがあまりないが、状況としては理不尽さに感情移入する世界のようだ。
このような死や腐敗に関する表現は、時にエロスから離れるための倫理として、エロスそのものとして、死と再生として美醜の境目にある曖昧なものとして表現の世界に点在している。ウンベルトエーコの『醜の歴史』の中でにニーチェの引用がでてくる。この流れにピタリとハマるので紹介したい。
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人間は結局、事物に自分を映し、自分の姿を反映するすべてのものを美しいとみなす。醜さは退化の兆候だと理解される。衰退、重々しさ、老化、疲労のあらゆる兆候、痙攣や麻痺といったあらゆる種類の不自由、とりわけ腐敗の臭いと色と形。これらすべてが同一の反応、「醜い」という価値判断を呼び起こす。いったい人間が憎悪するのは何か。決まっている。自分自身の没落を憎むのだ。
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また『性食考』の中ではバタイユが引用される。
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死に対する反応は、人類において最も強く、死の恐怖は単に存在の消滅に結びつけられるばかりでなく、また死者の肉体を生の普遍的な醗酵に返す腐敗にも結びつけられる。直接的な恐怖が、死の恐怖させる面と、その悪臭を放つ腐敗と、あの胸をムカつかせる生の基本的な条件との同一化の意識を 少なくとも漠然とながら維持しているのだ。古代の民族にとっては、臨終の苦悶の瞬間も、解体の過程に結びつけられているだけである。白骨には、ウジに食い荒らされた腐敗の堪えがたい外観はすでにない。生き残った者だちは、白骨を眺めて、この死者の憎悪が慰撫されたものと考える。彼らにとって尊敬すべきもののように見えるこの骨は、死の上品な荘厳な、堪えられる最初の面貌(めんぼう)をあらわしているのであり、この面貌はまだ不安をあたえはするが、少なくとも腐敗の激しい毒性を失っているのである。
屍体に対して抱く恐怖は、人間の源泉としての下腹部の排泄に対して私たちが抱く感情に近いのだ。恐怖の感情は私たちが猥褻と呼ぶ肉欲的なものを眺めた場合のそれに似ているだけに、この二つの比較にはますます意味があろう。性器の導管は排泄する。私たちはこれを「恥部」と呼び、肛門をもこれに結びつけている。聖アウグスティヌスは生殖器官と生殖機能の猥褻さにについて苦しげに主張した。「私たちは糞と尿のあいだから生まれるのだ」と彼は述べている。私たちの糞便は、屍体や月経の血に対する規則に似た、細心な社会的規則によって条文化された禁止の対象となってはいない。しかし全体的に眺めれば、汚物と腐敗と性欲の領域は、ずれながらも一つの領域を形づくっており、その関連は極めてはっきりしているのだ。
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聖なるものとタブーなものを同時につくりだす文化と教育によって、美醜や嫌悪や吐き気も作り出されているかもしれない。サルトルがゲシュッタルト崩壊をいったんは嘔吐と表現したのもその流れを組むものだろうと思う。
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