先日、友人のカフェでお茶をいただいていたところ、ヴォルテールの「寛容論」の話になった。
寛容論が魅力的に映るのは、その時代における保守的な集合意識への反対態度が含まれているからという側面もあるだろう。いまの世の中が生き抜くい、不満があると感じている人にとっては爽快な感じがするのだ。しかし、そんな軽々しいものにまかれちゃいかんなーと。そんな自己反省的な会話をした。
ある集合意識に対する反対態度は、伝統的なものに対して否定的になりがちだ。そこに自覚的にならない限り、次の一手は見えてこない。
自己と対象の鏡のような関係を言語化していくと、それらを扱う感覚質が立ち上がってくる。それは、実はものごとは二項対立ではないことを知る手がかりになる。
ヴォルテールの実際がどうだったかは賛否ありそうだが、その根本姿勢にあるのは啓蒙思想の実践だったろう。18世紀におこったヨーロッパでの啓蒙主義運動は、特にフランス革命に影響を与えたことで知られている。啓蒙思想はある種の普遍性を理性によって手に入れようという運動である。それは現在のアカデミズム、科学主義ともつながる姿勢だ。
フランス人が同じことを違う言葉で言い換える言い回しで言い直す習慣は、この啓蒙主義がインストールされているからといえるだろう。
啓蒙思想の根本は状態のことではなく、心身のバランスを操縦する行為であり覚悟のことだと思われる。認識には指向性があることを認め、理性をもって、できるかぎり偏らないように実践するということである。時には自分のアイデンティティでさえ変更するときだってあるだろう。
強者が弱者に対して感じる罪悪感、弱者が強者に対して感じるルサンチマン。そういった二項対立も相手側に憑依する力によって感情システムから引き離していくのだ。二項対立は学習のクセだ。理性がそうなっているからと思っていたが、よく観察してみると、そう習ったからとしか言えないなと気づく。つまりそれは学習の、ロゴスのクセなのだ。
ロゴスは対象を認識するための一つの様式だ。もちろんその様式は大切なのだが、大切な情報が捨象されてしまう場合がある。ロゴスは同一律、矛盾律、排中律といった基本ルールによって、対象を分離して観察し、矛盾の排除していくことで、整理された秩序を表現するために使われる。もちろんその抽象化は数学的になっていき、物理世界での生きやすさを提供してくれる。しかし、もともとの動きが矛盾だらけの人間や生物が対象物だった場合、なかなかポイントを探すのは難しいのである。もし、これだーと思ってもそれはエピステーメーだったりする。そのエネルギーの総体によって変化するムーブメントだったりするのだ。
例えば、南方熊楠などはロゴスの限界を知り、ロゴスとは別の理性である「レンマ」を使うことによって、生物の観察結果を表現した。レンマの根本には情報を失わないで保存しておこうという思いがある。すべてのものは互いに相まって存在しているという空の理論だ。
言語の最小単位を考えていくと、形態素という考え方にあたる。これはある単語のもつ辞書と見出しの機能を持つ。意味や存在といったものモチーフという感じだ。そこに遊び心があれば、そこに曼荼羅的な縁起のエネルギー、そしてそこから存在が立ち上がってくる。オントロジーや意味は、形態素からも十分に立ち上がる。
そこに必要なのは、まず楽しいという基本姿勢なのだ。
千鳥のノブが「二項対立のクセー」ってツミッコむ姿がTVでみられる日も近いだろうと思っている。そうしたら、大吾が「脱構築によって、二項対立の矛盾を突いちゃろか。世の中そんなに割り切れるもんばかりじゃないでー レンマレンマー 空空トレイン」とか言って、漫才は続いていくのである。
話をヴォルテールに戻すと、現代における「寛容」とは「所属する集団における常識的価値観を理解しながら、その社会にとっての非常識、非道徳的な価値観の持ち主を受け入れられる態度のこと」ではないかと思う。これは仮観よりの中観か、中観よりの仮観っていう感じだ。寛容とは感覚質の変化の過程であって、さらに進むと書かれる言語では消化できないところにいくだろう。そうなると形態素とデータベースの世界になって、あらゆるものが高速で脱構築したり、意味を生成したりする。
その心身の活動は、仏教の教えににも似ているところがある。仕事だけでなく生活も、企画より運用の方が大変なのである。ぬー
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