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執筆者の写真石塚

「哲学と美学の接点(中井正一)」

複数の人たちがコミュニケーションをとるにはどうしたら良いのか。最近のテーマです。


神保町の古書店「ひぐらし」の店主に勧められた中井正一。その中井正一が考えた「委員会のあり方」。ヒントがありそうなのでメモ。


中井正一は「きれい」かどうかを大事にする。そのキレイが共通して発動できるかどうかはルールなんだなと分かった。つまりスポーツやゲームというフレームワークのなかでだけ発揮されるキレイという感覚だ。


中井さんは「射影」という概念を使う。これはフッサールの"Abschattung"から着想を得てる。現象学的な還元をしてもなお意識や精神に残ったもの、それが射影だと考えた。それを存在感とも言っている。


中井さんのその射影や存在感を「真に切実なる、いわば寂しさまでに到達した存在感」と表現する。「きれい」はこの感覚から派生してくるのだ。


囲碁やバックギャモンの名手が「今の一手、キレイだね」というやつ、ダヴィンチのスケッチにも通じるものがある。


昨日は涅槃部というユニークな活動に参加しました。そこで話題になった「成長」「進歩」「出世」などの時間を伴った概念たちの差異。特に言うべきは出世。出世の語源は出世間。これは道元の「脱落の心身・心身の脱落」にも通じ、能の世界で感じられるものをベースに理解するとよく分かる。


「あはれ」「余情」「幽」「粋」などもすべて心身脱落。忌野清志郎的に言うと「ブームブームブームこの夏のブーム」というそれそのものとも距離感とも言えそうな気がする。


中井正一は「さやけさ」「かるさ」「あわさ」も心身脱落もそうで、「流るる水のごとく滞ることなき清らかさと軽さの美しさが、淡い哀感の中に滲み出ているのであります」とも語っている。


これは「恕 じょ」とも通ずる。恕は「他人の立場や心情を察すること。また、その気持ち。思いやり。」と言われるが、愛や共感とは違う。


この感覚質の理解が数学的センスであり、対数の法則に身を任せられる安心感なのだと思った。


中井正一ともう一人考えたい人がいる。それはジュディスバトラー 。バトラーの考えた複数の人たちでのコミュニケーション、それがアセンブリだ。


アセンブリとは「人々が集まる」という意味で使われ、大きく二つある。一つは選挙などで選ばれた代理人が集まった「議会」。もう一つは、市民が開く「集会」。


バトラーはこのアセンブリと言う概念に身体感覚を込めている。


けっして記号的にならない身体の顕現性をベースにした生存の主張。その感覚を込めるからこそ、世界規模の共生に向かう社会変容が衝突しながらも可能性を持つ。


集会(アセンブリ)における意味の生成は、参加者の身体が互いに協調しあい、行為になっていく。集会に集う人々の情動を、バトラーは「不安定性(precarity)」という概念で説明する。


大阪大学で哲学を研究するイリヤさんと「不安定性」から出発して、今の世界についてる語る予定。上手に集会することは身体を拡張させていく。


新自由主義の理念をベースにすると「自己責任」というキーワードが頻出してくる。しかしこのこの感覚質はアイデンティティやリアリティと深く結びついているわけではない。ある種幻想的な観念的な経済における充足に留まる。我々の可能性はもっと他にも広がっている。




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