「あつまる」と「わらい、はしゃぎ、うたい、おどる」という「さらけだす」行為が生まれて、人が「まじりあい」新しいものが生まれる。
そして時に「あらそい」が起きて、「つっぱり、わかれ」が起きることもあり、「やすみ、さまよう」。
たまに「だまし、かくす」人が現れるが、「わらい、はしゃぎ、うたい、おどる」と「まじりあい」が起きて「いのり」にかわる。
人が集まる場所に銭湯がある。銭湯は田舎っぽいと思いながら、案外都会的なもので、全員の顔が見えながら、誰でも新しい人が入ってこられるような開かれたところがある。
そして、銭湯に入ってくるお客さんは、全員と言ってよいほどマナーが良い。我慢してルールを守っている人はおらず、ルールを守ることが気持ち良いとさえ思っている空間がある。これは文化的には高い状態のもので、デモクラシーの基礎とさえ思うところがある。
銭湯に来ている人たちは、お互いに話をすることはないが、だいたいどんな性格なのか観察しあっている。どんな顔で入浴しているのか、身体の鍛え方、洗髪の仕方、刺青の柄、他人の動きを察知した動き方、身体と服のギャップなど。自分との差異を感じながら、寡黙なコミュニケーションをしている。静かに混じり合う。
そして、銭湯の醍醐味は、なんといっても自律神経系を整えるところにある。
緊張と弛緩のバランスがとれたところに、自己の満足と、社会で使える抽象度がでてくるのだ。
特に最近流行りのサウナは身体に面白い作用がある。
熱いサウナに入ると毛細血管が膨張する。手足の先から熱を感じるはずだ。
しばらくすると息が荒くなってくる。これは身体の細胞が酸素を必要とするからだろう。
身体が十分に弛緩したところで、それを冷ますように水風呂に入る。
すると毛細血管が収縮する。手足の先から冷たくなってくる。
熱いサウナの時の呼吸量とは異なり、こんどは少ない呼吸で済むようになる。
身体が酸素を必要としなくなるからだろう。呼吸は意識ではなくて身体にコントロールされている。
水風呂にもう少し入っていると、手足の感覚が消えていくようで、意識と静かな呼吸と心臓だけの存在になることが分かる。この状態は意識と身体は次元が違うところにありながら、臍の緒のようなもので互いに結ばれているような不思議な感覚を得られた。体験がどんな言語になるのかは個人差があるし、それを語り合うのも面白い。入りすぎは血圧が上がり眩暈がきたり、身体への負担も大きいので注意が必要だ。
この緊張と弛緩を繰り返したあとには、満足度が高く、さらに自分がかなり相対化された状態が仕上がる。これは、自分を持ちながら相手の話を聞きやすい状態であり、「さらけだす」行為と「まじりあう」行為がそこにある。
サウナで状態を仕上げたあとのミーティングは感情的にならずに情報交換がうまくいく。普段、情報を詰め混んでいる人にこそオススメしたいミーティング方法なのだ 。アウフヘーベンさまー。
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